なぜ私は生きたのか

人生とは選択と結果の連続である。ある選択が結果を招き、再び選択を提示される。その繰り返しだ。
多くの選択と結果はやがて1つの結果へと収束して行く、死である。
誰が言ったか「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉がある。
とても良い言葉だと思う、東條英機の辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 往くぞうれしき」はまさに上の言葉に繋がるような気がしてならない。
誰もが死後の自身を想う。誰もが証明できぬその先を見れるのならば、それまでの暇つぶしに過ぎないのかもしれない。

思い返せば、実に無価値な人生であったと悔やむばかりである。もう少しまともな選択は出来なかったものか?
物心が付く頃には、いつかこの時が来てしまう事を悟っていたはずだった。思春期、曇天と河を隔てて眺めていたゴミ処理場、将来を憂う。
銀幕に映し出された中途半端な青春時代、今のところこの頃が人生のピークだったと思う。なんとも虚しい。
夏休みの宿題を後回しにした少年の様に、私は今、多大なツケを払わされようとしている。
人生を棒に振ったと思う。
残された時間はきっと僅かである。それ故に私は私に投じるつもりだ。プロスペクト理論の思う壺だったとしてもこれ以外に最早方法がない。
思い返せば、実に無価値な人生であったと悔やむばかりであった。もう少しまともな選択は出来なかったものか?

その結果がこのザマである。

 

全ては決まりました

錯視の霧は晴れ、全ては決断されました。

これが英断となるのか、愚断となるのかはまだわかりません。

しかしやるべきことはやったのだと、自分はそう思うのです。

たとえ刀を明け渡したとしてもまたいつか、自分はそれを手に取るでしょう。

その用意は出来ています。

遥か悠久から続く桜花のような血脈は、新しいものにも刻まれるでしょう。

とりあえず今は、やるべきことをやりました。